http://www.timr.or.jp/shinsai/docs/31_yamato_toshimondai1010.pdf
原発はいらない ―ほんとうの自立をめざす祝島(いわいしま)の人々(2010/8/4)
山戸 孝さん (上関原発を建てさせない祝島島民の会・びわ農家)
『都市問題2010年10月号』インタビュー記事より 一部抜粋転載させていただきました。
反対運動をするために生きているわけではないけれど、生きるためには、向き合わないといけない問題から逃げているようでは、やはり駄目でしょう。
3〜4 年前ぐらいに、中国電力の人が詳細調査で作業をしているところに、抗議に行ったんですが、そのときに祝島の人が「私ら祝島の人間がこんだけ反対しよるのに、ほんとうに原発できると思うちょるんかね」と聞いたんです。そうしたらその人は、「祝島の人が諦めてくれたら原発はできます」とはっきり言ったんですよね。
やはりそのときに本音が出たと感じました。
要するに、中国電力のスタンスというのは、
反対している人たち――祝島の人たちだけではなくて、原発を作るなと言っている人たち――に対して、誠意と熱意を持って説明して、理解を得るのではなくて、
既成事実を積み重ねていって、もう反対しても仕方がないところまで追い込んで諦めさせていく、というかたちなんです。
そういうやり方に対して闘ってきわけですが、これは私個人の考えですが――島民の会としての考えにも近いとは思いますけれど、――、祝島の反対運動というのは、原発を建てさせないというのがもちろん目標ではあるんだけれど、ある意味、1 つのステップだと思っているんです。原発の建設を止めるというステップがあって、さらに次に進むための。
具体的には、島が充実して、きちんとこれからも子どもを生み育てていけるような環境を守る、あるいは、今非常に厳しいですけれど、経済的にもそれが可能になるような状況を何とか作っていく。島が自立するという目標があって、そこに対して原発はほんとうに大きな障害ですから、何とか乗り越えようとしていると、私はとらえています。
山戸さんのこの記事を読んで、今北九州で強行されている震災がれきの焼却問題とぴたっと重なりました。
いい加減な調査や検査をして結果だけ、自分たちの都合のいいようにマスメディアを使って報告する。市民がおかしさを指摘しても、市民に「過激派」「少数派」だの悪口レッテル貼りして無視。市民が疲れて諦めるのを待つだけ。
私たち市民は反対運動をするために生きているわけではないのです。しかし、子供たちを生き伸びさせたいので、上関の問題やがれきの問題からも逃げずに向き合っています。今年もこつこつと周囲に伝えていきましょう。
「もう遅い」「言ってもダメじゃろ」⇒諦めたら、終わりです。
「国策」が悪い国策だったら、正さなければなりません。上関は安全という判断で作られるのではありません。政治的な判断で作られようとしてるのです。がれきもそうです。安全だから燃やされているのではなく、政治的な判断で燃やされているのです。安全は担保されていません。
以下はチェルノブイリ事故後作られたビデオです。
六ヶ所ー日本の「核」村 - Rokkasho - Japan's Nuclear Village
日本列島は、核のゴミ屋敷。これ以上核のゴミを増やす原発を作ろうとする政治はいりません。
福島原発が収束も出来ていないのに新しく作ろうというのは、狂気の沙汰です。