山口県宇部市にある長生炭鉱。1942年2月3日に起きた水没事故の犠牲者の炭鉱労働者183名は、今も冷たく暗い海底に沈んだままです。そのうち137名が朝鮮人労働者でした。http://www.chouseitankou.com/
2013/1/4 「長生炭鉱の“水非常”を歴史に刻む会」の主催で、「いのち・未来うべ」副代表の浜野勝さんによる、「長生炭鉱水没事故に関する証言を聴く会」が行われました。
浜野さんは1940年生まれの73才。長生炭鉱の近くの海辺が生家。幼い頃からピーヤを見ていたそうです。長生炭鉱の“水非常”を、当時12、3歳だった自分がなぜ覚えているのかを、自らに問うたとき、戦争体験と水非常が結びついているからだという結論に達したそうです。
浜野さんは1945年終戦時、6才。宇部の大空襲の記憶、そして最愛の父親を終戦間際に戦地に召集され、ミャンマーで亡くされたそうです。今でも思い出すと涙が出ると、ハンカチで目をおさえておられました。その後は3人の子供を育てるため、母親が魚の行商をしておられたそうです。夜中に遠い市場にいっしょに仕入れに行き、母親と自分の2人分で魚を20貫目仕入れて帰る日々が続き、学校では眠ってしまうこともあったそうです。父親のいない寂しさ、学校行事にも来てもらえないなど、子供心ながら「あの戦争さえなければ自分の親は死ななかった」とずいぶん思ったそうです。
そんな浜野少年が12.3才の頃、“水非常”のことを床波の大人達から聞き、たいへん強い記憶として残ったそうです。
会社は儲けのために、どんどん坑道を上にあげていく。「ポンポン船の音がだんだん聞こえるようになっていってるのに、つまり、崩れる危険性が高くなるのに坑道を上にあげていく。坑道に入るのを嫌がる労働者を無理やり追い立てて入れる。そしてついに事故が起こった。1番浅いところは10mぐらいの深さだった。責任者は逮捕された。しかし、逮捕はかくまう意図があったのではないか。責任を取らされたというがそれは違うのではないか。
当時長生炭鉱の石炭は良質で、美祢の無煙炭のような感じ。5000カロリー位。潜水業の人に分けてもらったこともあるとのこと。海底にも石炭が盛り上がっている場所があったそうです。当時西岐波も隣組の制度が残り、当時の長生炭鉱のことを語る人は少ないとのこと。朝鮮の炭鉱労働者の人たちへの賃金は伝票であったこと。日本のお金を貯めないようにするため。二重三重に暴力的金銭的搾取が行われていたこと。学校の中にも差別が確かにあったそうです。
浜野少年は、広島から原爆にあい大やけどをして包帯を巻いた被爆者がたくさん電車に乗って宇部に帰ってきていたところを見たそうです。そして、当時昭和25年ごろちょうどレッドパージを受けた人が話すことを浜野少年は聞くようになり、「世の中を変えないといけない」と浜野少年は思ったそうです。
浜野さんの戦後のさまざまな体験から、今の浜野さんの「脱原発・平和」の筋を通す生き方、弱い者の立場に立って行動する生き方の原点がわかった気がしました。「今語っておかなければ」という浜野さんの思い。貴重なお話を聞かせていただき本当にありがとうございました。 戦争・原爆・原発・・・犠牲になるのはいつも労働者、弱い市民、そして子供たち。語り継がなければと思いました。
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