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東海村JCO臨界事故「被曝治療83日間の記録」動画と書き起こし。ウラン廃棄物は燃やしてはいけない

NHKスペシャル 被曝治療83日間の記録 〜東海村臨界事故〜 (2001年)

(書き起こし)

東京大学附属病院救急部集中治療室。1年半前、ここで世界でも前例のない治療が行われました。およそ30年にわたり救急医療に携わってきた前川和彦さんです。

前川医師はそのときはじめて大量の放射線を浴びた被曝患者と出会いました。 

ニュース 「株式会社JCO東海発電所の被曝並びに事故につきまして3名が被曝をして・・・」 

東海村の核燃料加工施設で起きた臨界事故では、二人が大量の放射線を浴びて亡くなりました。

日本の原子力施設の事故ではじめての犠牲者となった大内久さん。浴びた放射線は、一般の人の年間許容量のおよそ2万倍にも達していました。

大内さんの治療を行った医療チームです。最新の医療技術をすべて投入し、未知の治療にのぞみました。 

しかし放射線被曝のすさまじさに圧倒された日々でした。 

前川医師「一言でいうと、我々の医療者としての奢りをみじんにも砕いてくれたと言ってもいいんじゃないかと思います」

看護師「長く長く続けさせていくってことは、大内さんにとっては苦痛だったんじゃないかなとかって・・」 

看護師「別にありがとうって感謝されなくてもいいし、すごく怒ってくれてもいいから、どっちかの答えを大内さんからもらいたいです」 

83日間にわたる大内さんの治療記録です。「その死を無駄にしないで欲しい」 

家族の願いからはじめて明らかにされました。そこには医療チームの苦悩と、最後まで回復を祈り続けた家族の思いが克明に記されています。治療記録と証言でたどる大内さんの83日間です。

東大病院 事故発生当日  

その日、救急医療が専門の前川医師のもとに事故発生の一報が届いたのは昼過ぎでした。

前川医師「東海村で何か起こったらしいということを聞いたもんですから、テレビを見まして、それで初めて東海村で何か大変なことが起こったということを知りました。最初ちょっとやっぱり、大変なことかなということをうかがわせたのは、放医研に運び込まれた時に、テレビのニュースなんか見ますと、放医研の人たちが完全に防護服を着て、防護マスクをして、搬入されてるっていうところを見たものですから、ひょっとするとかなりの汚染があるのかなということは疑いました」 

大量の放射線を浴びた大内さんは、最新の治療を受けるため東大病院に移されました。被曝医療の専門家グループで中心的な役割を果たしていた前川医師が医療チームのリーダーになりました。 

前川医師「大内さんが浴びられたと推定される線量っていうのは、これはもう致死的であるということは誰の目でも明らかだったと思います。とは言え、その時点で目の前にいらっしゃる大内さんは非常にお元気ですし、どこから見ても高線量の被曝をされたっていう印象はないぐらいのお元気な方ですから、できるだけのことはやろうと・・」 

初めて受け入れる被曝患者は看護師たちの想像とは全く違っていました。 

看護師「先生が下から上に連れてきてICUの中で会ったんですけど、そのまま個室にストレッチャーで普通の入院患者さんみたいに入ってきて、1日で一気に日焼けをしちゃったぐらいの赤さを帯びてて、手がすごい腫れてて、そっちが痛いっていうふうに言ってて・・」

看護師 「死なずに済むというか、退院できる状態になるんじゃないかなってその時は思いました・・」 

最も多くの放射線を浴びた大内さんの右手です。この時は少し赤く腫れているだけでした。 

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事故当日、大内さんは会社のマニュアルにしたがって放射性物質を扱う作業を進めていました。バケツをつかってウランを濃縮する作業でした。臨界が起きる可能性については、まったく知らされていませんでした。同僚は、バケツでウラン溶液をそそぎ、大内さんは、ロートを右手でささえていました。 

7杯目のウラン溶液が注がれたとき、突然、青い光が走りました。核分裂が連続する臨界が起きたのです。 

放射線が大内さんの細胞の染色体を直撃しました。

染色体はすべての遺伝情報が収められた人体の設計図です。 それぞれ番号が決まっていて、順番に並べる事が出来ます。 しかし、放射線に直撃された大内さんの染色体は並べることもできませんでした。断ち切られ、別の染色体とくっついているものもありました。 染色体が破壊されたことは、今後新しい細胞が作られないことを意味します。

被曝した瞬間、大内さんの体は設計図を失ってしまったのです。 

平井久丸医師 「染色体がそういうダメージを被ってますから、そこから推測されることは、おそらく肝臓の細胞あるいは腸の粘膜の細胞、そういったものがすべてダメージを受けていて、おそらく、その細胞は再生はできないんではないか・・・」 

染色体が破壊されたことによって、最初に異常が現れたのは、血液の細胞でした。中でも、体を守る働きをする白血球が急激に減少していました。

ウィルスや細菌に感染しやすい、きわめて危険な状態でした。感染を防ぐため大内さんは無菌室に移されました。

白血球の数は健康な人の10分の1にまで減少していました。前川医師たち医療チームは、治療方針を検討しました。

唯一の治療法は、白血球をつくる細胞を移植することでした。移植を行うためには大内さんと白血球の型が合う人が必要でした。

一致したのは、大内さんの妹でした。この血液成分を分離する装置を使ってただちに妹から採血が行われました。

その中から白血球をつくる細胞が取り出されました。採血には二日間、合わせて9時間あまりかかりました。

妹の細胞が大内さんに移植されました。今後の病状は妹の細胞が大内さんの体内で白血球を作り出すかどうかにかかっていました。結果が出るのは10日後でした。 

この頃、大内さんは面会に訪れた家族や看護師たちと会話を交わせる状態でした。

看護師「どういういきさつで結婚されたんですか?高校の時からの知り合いで結構長く7年ぐらいの付き合いがあって結婚したっていうふうに聞いていて、へ~すごいラブラブな大恋愛で結婚したんですねってそういう話をしました」 

前川医師は大内さんの病状や治療について毎日欠かさず家族に説明していました。説明が行われた応接室です。今後予想される病状の悪化についても率直に伝えました。

前川医師「家族の方々には、すくなくとも毎日毎日看ていただいて、真実を受け入れていただくという努力はしました。決してきれいごとではなくて、やっぱりすごい放射線による障害ですので、見た目にもやっぱり大きな変化が起こりますから、それはそれなりに真実として受け入れていただくように、毎日毎日看ていただいてました・・」

放射線障害は、体の表面にも現れました。1週間を過ぎた頃から、治療用のテープをはがした跡が消えなくなりました。 

看護師「最初は普通にテープを使っていたんですけど、テープを貼ったところが、全部そのまま、テープをはがすときに皮膚がくっついてとれてしまうっていうのが、どんどんひどくなって最終的にはテープは一箇所も使えなくなりました。」 

健康なとき皮膚の細胞はさかんに分裂して新しいものに置き換わります。しかし放射線をあびた大内さんの皮膚では新しい細胞ができなくなりました。古い皮膚は剥がれ落ちていきました。

皮膚に走る激痛、感染とのたたかい、肺には水がたまり、呼吸が困難になり始めていました。 

看護記録に記された大内さんの言葉です。 「もう嫌だ」 「家に帰る!」 「やめてくれ」 「おふくろ」 

呼吸を助けるため、器官に管を入れて、人工呼吸器をつけることが検討されました。それは家族と言葉を交わせなくなることを意味していました。

面会に訪れた奥さんに、大内さんは語りかけました。 

看護師「大内さんたぶんその頃は、すごいいろいろ体のだるさとかがでてきて、お話するのも多分、力が要る、そういう感じだったと思うんですね。それでもなんかこう、ちょっと優しい口調で少し笑いながら、奥さんに「愛してるよ」とおっしゃってて、そういうのが伝わってくると、私たちは辛い、ですよね・・私たちは確かにわからないといっても、大内さんがこれから状態が悪くなるっていうのは、想像ができることでしたし、もちろん大内さんも少しは知っていたと思うんですよ、悪くなるであろうということを、その中で、家族にそういうことを伝えたっていうことが、大内さんがどんな気持ちで奥さんにその一言を言ったんだろうと思うと、微笑ましいと思いながらも、なんて言えばいいんでしょう、大内さんの伝えたかったことが、その一言に込められていたんだな・・・と思います・・」

翌日、大内さんは呼吸困難になりました。その直後、挿管=器官に管を入れる処置、が行われました。

大内さんの無言の戦いが始まりました。

被曝11日目

家族は、毎日面会に訪れていました。奥さんと息子、両親、兄弟が大内さんとの面会を待っていた部屋です。 

看護師長「なにか用事があって入った時に、ここで一生懸命鶴を折っておられて、それが印象的ですね。」

大内さんの家族が折った鶴です。 1つでもいいからベッドの近くに置いてあげたいと家族は希望しました。しかし感染を防ぐために無菌室に入れることはできませんでした。家族は鶴を折り続けました。

被曝18日目

妹から移植された白血球を作る細胞が根付いているかどうか血液の検査が行われました。細胞の中に光る赤い2つの点。女性の染色体であることを示しています。大内さんの血液の中で妹の細胞が息づいていました。

前川医師 「みんなほっとしたと思います。その局面では。まず最初の難関、まあそれで一時期にしろ突破できたかなということで、僕自身もこれで白血球が増えてくれれば、がんばれるなというのは思いましたね」 

白血球をつくる細胞の移植が成功したのは、被曝治療では初めてでした。白血球は、順調に増え健康なときと同じ値まで回復しました。

大石さんは、言葉は語れなくても、家族の呼びかけに体全体で応えていました。しかし1週間後、血液の細胞に微妙な変化があることがわかりました。

大内さんの体内に根付いたばかりの妹の細胞の染色体です。その一部に異常が発見されました 

染色体に傷がついていました。これも放射線が原因ではないかと医療チームは考えました。大内さんの体を貫いた放射線によって体内の物質が変化し、自ら放射線を発するようになっていました。 その放射線が妹の染色体を傷つけたのではないかとみられました。

医師 「血液の病気で、骨髄移植を受ける、あるいは末梢血幹細胞移植を受けるという患者さんはたくさんいらっしゃいますが、そういう患者さんで新たに根付いた細胞にそういう異常が見つかったことは、まったくないんですね。ですから我々にとってある意味で衝撃でもありますし、放射線被曝の怖さでもありますし、その理由が何かということが随分議論にはなりました。もちろん証拠が何もありませんので結論は出てませんけどね・・・」

被曝27日目
病状の悪化は、血液と皮膚だけにとどまりませんでした。大内さんの腸の内視鏡映像です。死んだ粘膜が白く変色して、垂れ下がっています。

大量の下痢も始まりました。放射線の被曝では、腸など消化管の障害から死に至るケースが多いとされます。

前川医師がもっとも恐れていた事態でした。家族の同意を得て、臨床試験中の薬も投与しました。

しかし、下痢の量は日に日にふえ、1日3リットルを超えました。

下痢が始まって3週間後、腸の中で出血が始まりました。 粘膜がはがれたところから、染み出した血液が溢れていました。大内さんの輸血の記録です。青いシール一枚が輸血一回分です。

半日で10回以上行われた日もありました。 

前川医師「こうした高い線量の被曝をされた患者さんの治療で、科学的な根拠を作るのはほとんど不可能なもんですから、いいだろうと思われる治療、我々が持てる薬すべて投入してましたので、今から思っても、消化管出血に対しては打つ手はなかなかなかっただろうと思いますね・・・」 

大内さんは、重症患者用のベッドに移されました。55度の角度まで傾くベッドです。体の循環をよくし、皮膚に負担を与えないためでした。状態がさらに悪化していました。

当時の治療の様子です。皮膚が失われたところから、血液や体の水分が染み出していました。 体のほとんどを、ガーゼで覆わなければならなくなっていました。 

看護師「毎日毎日染み出しがすごくって、もうほんとに半日かかるぐらいなんですね。午前中いっぱいとか たくさんの先生に囲まれて皮膚の処置をするんですけど、それがすごく痛いみたいで、そのときは完全に薬をたくさん使って眠らせるようにはするんですけど、みてるだけで、すごく痛々しかったですね」 

看護師「目もすごく乾燥するし、出血しやすくなるし、けっこう目から出血していて、血の涙が流れているような感じです・・・」

ガーゼで覆われた大石さんの体です。あびた放射線の量が多いところから、障害が全身に広がっていきました。

皮膚や腸から1日、10リットル前後の水分が失われていました。同じ量の水分を常に補給しなければなりませんでした。

水分の染み出しを防ぐために、皮膚の移植を行うことになりました。人の皮膚を試験菅で培養してつくった、培養皮膚です。やけどの最新の治療法である培養皮膚の移植が毎日のように行われました。 

前川医師「もうご本人の皮膚がなくなっているもんですから、少しガーゼでこすって出血する層を出して、そこにのせるというかたちのものですから、 それほど大掛かりなものではないもので、入手でき次第、皮膚移植をどんどんやっていきました。しかし、残念ながらせっかく頂いて植えた皮膚は、全身状態も関係しているのかもしれませんけれども、つくということはありませんでした。」 

被曝から一ヶ月後の大内さんの右手です。放射線によって染色体が破壊され細胞は次々と失われていました。 

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治療方針を検討する会議では医師たちの発言が少なくなっていました。方針を決定していたのは常に前川医師でした。

白血球を作る細胞の移植が成功したあとは、治療の成果が見えない日々が続いていました。 

研修医 「助かる見込みが非常に低いということが客観的に誰の目にも明らかだった。ただし誰もあまりそれは公に口には出しませんでしたけど、やはりみんな誰しもがそう感じてたと思います。ただ、それを誰かが言い出すと全体の士気といいますか、結局自分たちがやってること、その大内さんに積極的に介入していくということに対して、一度疑問を持ってしまうと、一度誰かが疑問をもってしまって、それがみんなに伝わってしまうと、自分らは一体何をやってるんだと、誰のために何のためになってんだということになってしまいますから、それが少し怖かったのかもしれないですね」

看護師「ひどくなってからは、本当に、ここにいる人はなんなんだろうって、誰なんだろうとかじゃなくてなんなんだろうっていうぐらいにひどい状態なんですね。本当に、体がある、それも綺麗な体じゃなくて、ぼろぼろになった体がある。それで機械が周りについている・・・っていうような状態で、それで私たちはそういう体を相手に、次から次にその体を維持するために、かわきそうな角膜を維持するためにとか、はげてきそうな皮膚を覆うためにとか、そういう処置がどんどん続いていくので、自分は何のためにやってるんだろうっていうのばっかりだったんですね。だから自分は別に角膜を守りたいわけじゃないし、大内さんを守るためにやってるんだって思わないと耐えられないケアばっかりでした。」 

治療が始まって2ヶ月が経とうとしていました。大量の出血と繰り返される輸血。大内さんの心臓は、体全体に血液を送り出すために激しく打ち続けていました。

心拍数は1分間に120以上。マラソンをしているときと同じぐらいの負担がかかっていました。 

被曝59日目
この日、前川医師はいつも通り午前7時ごろ回診を始めました。その直後、モニターを見た前川医師が大内さんの病室に駆け込みました。

心臓が突然停止したのです。 

前川医師「これはまずいってことで、急いで大内さんの治療室、部屋に入って、そこまで行きますとすぐに心臓、心肺蘇生って言うんですけども、心臓マッサージをはじめるんですが・・・」  

大内さんの心臓は、いったん動き始めたものの再び停止、再開と停止を3度繰り返しました。分刻みで心臓マッサージと強心剤の投与が行われました。 

前川医師「何が起こったんだろうということもちょっとわからなかったですし、心臓もどってくれっていうことを念じて、マッサージをしたりみんなの手配をしたりして、全員集合したんですけど・・」 

1時間ほどして、大内さんの心臓は自らの力で、再び鼓動を始めました。 

看護師「やっぱり戻った時は、ほっとしました・・・本当にその時は何も考えられなくて 一生懸命戻って欲しいってと思うことばっかりだったんで・・・戻った瞬間は大内さんが戻ってくれたと思ってほっとしました」

しかし、心臓が一時的に止まったことによって、脳、腎臓など全身の臓器が深刻な影響を受けました。大石さんの症状が急速に悪化していきました。

大内さんは家族の呼びかけにも応えなくなりました。機械と薬に支えられて生きていました。 

前川医師「自分自身はもちろん長い経過の中でとくに終わりの方にいたっては、もう治療やめたほうがいいんじゃないかなと思ったと思います。 しかしなんといっても大内さんの場合、ご家族の方々が最後の最後まで希望を捨てられなかったというのが、私たちを支えてくれた一番大きな原動力となったと思います・・・」

面会に訪れた家族の言葉です。

母は息子の名前を呼びかけました・・  「頑張ってね」

父は耳元で語りかけました・・     「最後まで頑張るんだ」 

被曝65日目

大内さんの血液の中で新たな事態がおきていました。アメーバのように広がるのが免疫細胞です。体に進入した細菌やウィルスなどを退治します。それが異常をきたし、正常な白血球などに襲いかかっていました。輸血と血液を増やす薬の投与が繰り返されました。 

前川医師「白血球がどんどん下がってくる、最後はほとんどゼロに近い状態まで戻ってしまったんですね。そんなこともあって、もう打つ手がない、最後はほんとに打つ手がないなっていう閉塞状態って言いますかね、なんとも言いようのない気持ちですよね。前にも進めない、後ろにも下がれない、かといって何かいい方法、解決策があるわけでもないっていうまったく手詰まりの閉塞状態っていうのが正直な気持ちでしたね・・」 

異常をきたした免疫細胞は、妹の細胞がつくりだした白血球まで攻撃していました。

被曝81日目の夜、前川医師は大内さんの家族全員を呼びました。「今度、心臓が止まっても、もう蘇生措置はしない方がいいと思う」、前川医師は説明しました。 

前川医師「その時にはもう何もしないでください、ということはおっしゃいましたので、それで関係する医療スタッフには徹底して、心臓がとまっても、今度はもう心肺蘇生をしないということになりました・・・」 

家族は言葉すくなに部屋を後にしました。

その翌日、奥さんは大内さんに語りかけました。「2000年は越してほしい・・」

家族は待機室で鶴を折り続けていました。その数は1万羽に達しようとしていました。 

被曝83日目

奥さんは息子を連れて、大内さんの元を訪れました。この日初めて顔のガーゼを外して面会しました。 

小学生の息子が父親に呼びかけました。 「お父さん がんばって」 

看護師「そのときだけ奥さんが泣かれて、私の見る限りでは・・奥さんがそのときだけ泣いちゃって、たぶん泣いてるのも我慢しながら泣いてるんですよね・・我慢しないで!と思っていた・・・」 

その日の夜、大内さんは息を引きとりました。 大内さん、家族、そして医療チームの83日間にわたるたたかいは終わりました。

人間の体を内側から壊していく放射線被曝。放射線の影響は大内さんの体の隅々にまでおよんでいました。

大内さんの筋肉の細胞です。放射線の影響をもっとも受けにくいとされています。

しかし、多量の放射線をあびて、筋肉の繊維はほとんど失われていました。その中で1つだけ、筋肉がきれいに残っていた臓器がありました。心臓でした。心臓の筋肉だけは、放射線に破壊されていませんでした。 

医師「・・どうしてなのか・・もちろん違いはあるわけですけれども、心臓が大丈夫でほかの筋肉だけがやられていく、いろいろ文献を調べても今のところよくわかりません。放射線の影響なのか、薬剤、いろんな治療の影響なのかもいろいろ議論をしましたけれども、両方の意見がありまして、私もまだ結論はでていない。ただ事実としてはそういうことがありますので今後の医療のひとつの考えるべき点かなというふうには思っております・・・」 

体中の細胞が壊される中で、大内さんの心臓は生き続けていました。

医師や看護婦たちが懸命に大内さんの治療を続けてきた救急部集中治療室。その日々は医療チームのひとりひとりに今も大きな問いかけを残しています。 

前川医師「今回のことで感じるのは、やっぱり、人間の作ったものは、一歩間違うととんでもないことになるなと、そのとんでもないこともほんとに我々一介の医師がなんともしようがないと、たとえどんな最新の技術や機器を持ってしても、とってもとっても太刀打ちできない破滅的な影響をもたらすんだなということは実感しました・・・」 

大内さんとの出会いは、前川医師にとって大きな転機になりました。

この春、前川医師は定年を迎え、病院を去りました。これからは被曝治療の体制づくりに 取り組もうと決意しています。 

「逝ってしまった人たちは戻ってくることはありません。逝ってしまった人たちに今度はありません。」

前川医師の元に届いた大内さんの奥さんからの手紙です。 

「とても悲観的な考えなのかもしれませんが、原子力というものにどうしてもかかわらなければならない環境にある以上、また同じような事故が起きるのではないでしょうか。しょせん人間のすることだから、という不信感は消えません。それならば原子力に携わる人たちが、自分たち自身を守ることができないのならば、むしろ主人たちが命を削りながら教えていった医療の分野でこそ、同じような不幸な犠牲者を今度こそ救ってあげられるよう祈ってやみません・・・」 

 

(管理人より)

※この動画の中に心臓の筋肉に関するところがありますが、これは、大内さんが外部被曝で高線量を浴びたせいではないかと私は思います。内部被曝なら心臓に放射性物質が蓄積し内側から細胞を破壊することになります。心筋梗塞など突然死の報告がチェルノブイリ事故の際もなされています。

 

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低レベル廃棄物の焼却処理開始

http://www3.nhk.or.jp/lnews/mito/1074774121.html?t=1421659511919

茨城県東海村にある核燃料加工会社「ジェー・シー・オー」は、平成11年の臨界事故のあと敷地内で保管している低レベル放射性廃棄物などについて、周辺住民の理解が得られたとして、事故から15年余りを経て、19日から焼却処理を始めました。

平成11年9月、東海村にある核燃料加工会社「ジェー・シー・オー」で、核燃料の製造過程で違法な作業を重ねた結果、核分裂が連続して起きる「臨界」が発生し作業員2人が死亡したほか、周辺の住民などおよそ660人が被ばくしました。
「ジェー・シー・オー」では、臨界事故のあと、低レベル放射性廃棄物などを敷地内で保管してきましたが、周辺住民の理解が得られたとして、19日から新たに設置した炉で焼却処理を始めました。
作業は午前11時から始まり、臨界事故の前、核燃料を精製する際に使用した油類およそ100リットルの焼却が行われ、トラブルはなかったということです。
今後は、油類の処理を終えたあと、作業服など臨界事故の後に出た低レベル放射性廃棄物の焼却を進めることにしていて、200リットルのドラム缶に換算しておよそ700本分を8年かけて処理する計画です。
東海村の70代の男性は「事故後の処理を進める必要もあり、焼却処理はしかたがないと感じているが、安全に安全を重ねて進めて欲しい」と話してました。
「ジェー・シー・オー」では、3月上旬、焼却処理の結果について周辺住民に報告することにしています。

01月19日 18時12分

(管理人より)

ついにウラン廃棄物が燃やされてしまいました。このNHKの記事。「仕方がない」という意見を市民の声として取り上げています。

しかも記事本文中に「ウラン廃棄物」と書いていません。「低レベル放射性廃棄物」としか書いてありません。このあたりももう異常だと思います。

今日から燃やして、焼却処理の結果報告が3月とかふざけてるのかと思います。

茨城県HP、東海村HP、JCOのHPも、茨城新聞も、今日のウラン廃棄物の焼却開始のお知らせは出ていませんでした。

私は震災がれき焼却に反対した市民は、この狂った事実をどう考えているのかと思います。 

JCO 東海事業所 放射線監視状況

モニタリングポスト設置地点

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