http://www.malaysiakini.com/news/163166 より翻訳はブログ風の谷管理人
私たちは、涙がかれる程たくさん泣きました
ライ・カンさんがはじめてブキメラ、ペラ州のアジアレアアース工場敷地(ARE)に足を踏み入れてから約30年経ちました。
彼女はちょうど一番下、6人目の子供を妊娠していたことがわかったばかりでした。
しかし、彼女は貧しかったため地元の土建業者に労働者として就職せざるを得ませんでした。そしてその施設でさらなる建築物を建設するため雇われました。
何も知らずに日々の生活費のため、そのような決意をしたことで、結局彼女は心を痛めています。ARE工場での労働の数ヶ月後、彼女の息子は(彼女はコック・リオンとだけ名乗るよう頼んだ)身体障害者で産まれました。
その男の子は目にシビアな問題を抱えていました。やがて彼が5歳の時、左目の視力を失いました。そのうえ彼は心臓に空いた穴で苦しんでいます。
しかし、ライ・カンさんを最も悩ませているのは、彼女の大切な息子に知的障害があるということです。コック・リオンさんは現在29歳の大人ですが、彼の知能は幼児期から発達していません。彼には言葉の能力がほとんどありませんし、オムツを外したことがありません。
彼が安全な家から出て歩き回らないようにするため、胸までの高さに作られた間に合せの材料のワイヤ製の網のドアで、残りの世界から切り離されて、彼は制限された部屋の後ろに閉じ込められています。
つまりライ・カンさんはもう69歳で、30年間、ずっとそこで息子の世話をして過ごしているのです。彼女が息子を連れて帰った最初の日からほぼ同じやり方で。
ライ・カンさんの娘達のうちの一人は学校をやめなければならなりませんでした。以前にも彼女は、家族を助けるために転籍したクラスをやめました。なぜならライ・カンさんの夫は家族を捨て、彼女は息子のそばを離れることはできなかったからです。
「私と息子を見て、あなたは、私がどんな思いでいるか感じることができますか?」と、客家語(限られた教育のために流暢である唯一の方言)で、彼女は言いました。
【追記】 コック・リオンさんは2012年の春、亡くなりました。
放射線被曝上の手掛かりなし
1980年代から1990年代初期まで日本企業の三菱化成によって経営されたARE工場は、レアアースを抽出するためスズを取り除く処理過程で発生する放射性廃棄物がずさんな管理であったと主張されていることによって、ブキ・メラに放射能汚染を拡散したと非難されています。
工場事業の余波で、クレダンの丘のふもと近くが永久的な敷地としてアジア最大の放射性廃棄物処理場の一つとなったのです。
オーストラリアの鉱山会社ライナスによる別のレアアース処理施設建設計画(今度はパパンのゲベン)が最近公表されたとき、AREのエピソードから漏れている健康被害の影が、再び浮かび上がりました。
ARE構内で労働していた時のことを語ると、ライ・カンさんは、全ての労働者が、構内にいるときはいつでも温度計のようなピンを胸につけることを要求されたことが少し奇妙だったと言いました。放射性物質への曝露を測定するために使用されるものだと後でわかったことですが。
職場では毎回、私は本当にひどい何かの匂いを嗅ぐことになりました。そのせいで喉が渇いたし、そうでなければ何もおかしいと感じませんでした。
「私は、パパンの住人が村に廃棄物を埋めるという工場の計画に抗議し始めたとき、放射性廃棄物に関して知っただけでした。村民はそのことを私に教えてくれました」と彼女が言いました。
一番下の娘は赤ん坊だったので、絶えず病院を出たり入ったりするということは、彼女にとっては難儀であったと、ARE工場からの放射能中毒で家族が苦しんだもう一人の高齢者は言いました。
パンチャバーナム Shanmugam(55歳)さんは、工場から多くの廃水が出されていることに気づいた時、1987年にARE工場のちょうど隣の一区画の土地上で森林を切り開く労働者として働いていました。
「私たちの仕事は終了するまで約7か月かかりました。しばしば、たくさんの廃水が工場から出ましたし、それは私たちの膝とほとんど同じくらいの高さまで水位が上昇しました。水はとても臭かったのです」と彼女は自宅で語りました。
「私の子どもは苦しんでいます」
1年後に、パンチャバーナムさんの一番下の子ども、カスツーリさんが生まれました。そしてまたすぐに困った問題が発生しました。
彼女は赤ん坊のカスツーリさんが、突然病院の無菌環境の中で扱われなければならなかった点について、体中に炎症がどのように起きたのかを語りました。さらに彼女の娘はいつも割れるような頭痛がしていました。それは激しい鼻血を伴って時として失神しました。
彼女が白血病を患っているということを医者が発見したのは、カスツーリさんがおそらく10歳か11歳ごろでした。彼女の上2人の兄弟のどちらもその病気にかかっていませんし、パンチャバーナムさんも、彼女の家族の中でその病気を持っている人はいないと語りました。
「彼女は友達のように走ることができませんでした。また彼女は、何かに集中することが難しいということがようやく分かりました。彼女は英語を話すことができます。しかし、注目することは彼女にとって難しい...彼女は5年生を終了することができませんでした。」とパンチャバーナムさん(右)が娘について言いました。
カスツーリ(現在23歳)さんは現在近くの織物店で働いています。しかし、パンチャバーナムさんは娘がまだ定期的に病院に出たり入ったりしていることを気にしていました。
「それは彼女にとってつらく苦しいものでした」と彼女を想う母親が言いました。
そしてライ・カンさんの娘(匿名を頼んだ)によって述べられたように、放射線によって病気にさせられた人達だけでなく、自分の愛する家族の運命を変える力がない家族にとってもまた、耐え難いものなのです。
私は、同級生が私の兄弟を彼はどうだとからかうので、学校を辞める前はひどい目にあいました。私の母は、結婚披露宴にいくことも母の日を祝うこともできませんでした。私の兄弟の世話をしてくれる人が誰もいなかったからです。
「私たちは、涙がかれる程たくさん泣きました」と、彼女は言いました。
(管理人より)マレーシアのブキメラ放射能汚染は、日本人がバブルに浮かれていた1980年代頃に起きました。日本企業の三菱化成の合弁会社の工場が操業を開始した後、周辺住民に多大な健康被害が起きました。放射能による公害です。
ブログ記事冒頭に、健康被害者の方の現地のインタビュー記事を翻訳して載せました。(原文は記事下にスクロール)
この時の住民の訴訟の歩みを記録した書籍 『Wasted Lives』 が現地では出版されていますが、日本ではほとんど知られていないようです。
(左)マレーシア・ペナン消費者協会出版の原書 『Wasted Lives』
(右)2000年に出された日本語訳の97pの冊子『ふみにじられた生命 ブキメラ放射能汚染』(編集:広島平和教育研究所、日本語訳:大庭里美)
発行元が広島県教育用品株式会社で、一般書店には販売されておらず電話で直接注文しましたが、もう在庫がないそうです。探していただき入手できました。なので、これからこの冊子から内容を少しずつブログアップしてご紹介していきたいと思っています。
反被曝という立場で原発の反対を訴える方や、再生可能エネルギーが脱原発の代わりになると思っている方にぜひ読んでいただきたい一冊です。
目次
1.「わたしたちは子どものためにここに来ているのです」−ブキメラ住民のAREとの闘い
2.「なぜ、わたしたちは放射能に反対するのか」−ブキメラの勇気ある女性たち
3.死にゆく子どもたち−ブキメラ村の医療問題
4.希土類金属(レアアース)生産における放射能
5.低線量被曝の危険
6.危険度の過小評価−放射線被曝に安全値はない
7.「素手で仕事をした」−無責任な会社
8.広がる不信感
9.AREの劣悪な経済−140億年の長期にわたる代償
10.日本の責任
(原文)Bukit Merah survivor: Our tears have run dry
It has been nearly 30 years to the day that Lai Kwan first set foot on the grounds of the Asian Rare Earth (ARE) factory in Bukit Merah, Perak.
She had just found out that she was pregnant with her sixth and youngest child, but poverty left her little choice as she had to take up a job as a labourer with a local contractor, hired to build an additional structure at the facility.
Unknown to her, that decision to earn her family’s daily bread would ultimately break her heart.
Several months after her stint at the ARE plant, her son, whom she asked only to be identified as Kok Leong, was born disabled.
The boy had severe problems with his eyes, eventually losing sight in his left eye when he was five. He also suffers from a hole in his heart.
But what pains Lai Kwan the most is that her precious son is mentally challenged.
Kok Leong is now an adult of 29 years, but his mind is no more developed than a toddler’s. He has little or no capacity for speech, and he has never been out of diapers.
To keep him from wandering out of the safety of their home, he is kept at the back of their modest unit - separated from the rest of the world by a makeshift wire mesh door that stands up to his chest.
And that is where Lai Kwan, now 69, has spent the past three decades, caring for her boy all these years in much the same way that she had from the first day she brought him home.
One of Lai Kwan’s daughters had to quit school, even before she finished Remove class, to help support the family, since her husband had abandoned them and she could not leave her son’s side.
“When you see me and my son, can you feel how I feel?” she said in Hakka, the only dialect she is fluent in due to her limited education.
No clue on radiation exposure
The ARE plant, run by Japanese company Mitsubishi Chemicals from the 1980s to the early 1990s, is blamed for spreading radiation poisoning in Bukit Merah due to what is claimed to be its poor management of radioactive waste generated from processing tin tailings to extract rare earth.
The aftermath of the factory’s operations has been one of the largest radioactive waste clean-ups in Asia, with a permanent site set up at the foot of nearby Kledang hill.
Ghosts of the health hazards leaking out of the ARE episode resurfaced recently when plans by Australian mining firm Lynas to build another rare earth processing facility, this time in Gebeng, Pahang, were made public.
Recounting her time working on the ARE premises, Lai Kwan said it was a bit odd that all staff members were required to wear a thermometer-like pin over their chests whenever they were on site, which she found out later was used to measure exposure to radioactivity.
“Every time at work, I would smell something really awful. It made me thirsty but otherwise I didn’t feel anything strange.
“I only found out (about radioactive waste) when the residents of Kg Papan started protesting against the factory over plans to bury the wastes in the village. The villagers told me about it,” she said.
Another senior citizen, whose family was also afflicted by radiation poisoning from the ARE plant, said it has been hard for her youngest daughter, having been constantly going in and out of the hospital since she was a baby.
Panchavarnam Shanmugam, 55, was working as a labourer clearing forest cover on a plot of land right next to the ARE factory in 1987 when she noticed a lot of water being flushed out from the factory.
“Our work took us about seven months to finish. Many times, there would be a lot of water coming from the factory and it would rise to almost as high as our knees. The water was very smelly,” she said at her home.
‘My child suffers’
A year later, Panchavarnam’s youngest child, Kasturi, was born and almost immediately the complications arose.
She recounted how as a baby, Kasturi suddenly suffered inflammation all over her body to the point that she had to be treated in a sterile environment at the hospital.
Her daughter also had constant, splitting headaches, which came with heavy nose bleeds and on some occasions, fainting.
It was only when Kasturi was around 10 or 11 years old that doctors discovered that she was suffering from leukaemia. Neither of her two elder siblings has the disease, nor could Panchavarnam recall anyone in her family having the condition.
“She could not run like her friends, and she just found it hard to concentrate on anything. She can speak English, but it’s difficult for her to focus... she could not finish her Form Five,” Panchavarnam (right) said of her daughter.
Kasturi, now 23, is now working in a nearby textile store, but Panchavarnam noted that her daughter still goes in and out of the hospital regularly.
“It has been hard for her,” said the doting mother.
And, as described by Lai Kwan’s daughter, who asked not to be named, it is hard not only on those made sick by the radiation but also on their families, who are helpless to change the fortunes of their loved ones.
“I had a hard time in school before I stopped, because my classmates would make fun of my brother because of how he is. My mother couldn’t go for wedding dinners, or celebrate Mother’s Day because there wouldn’t be anyone to take care of my brother.