(管理人より)原発事故後、放射性物質が環境中にばらまかれ日本は世界一の放射能汚染国になりました。
その後、放射能汚染された震災がれきが日本中で広域処理され、放射能汚染が比較的低い地域にも、汚染を移動させることが国策としてゴリ押しされました。
本来は放射性物質は集中管理しなければならないはずなのに、がれき広域処理を露払いとして、関東の放射能汚染された下水汚泥や焼却灰などあらゆる放射性廃棄物が日本中に運ばれています。
「リサイクル」「循環型社会」という大義名分でセメントや肥料など商品化されて姿を変えています。埋め立てもされているようです。
行政に情報公開請求しても黒塗りもあります。そこから民間企業同士のやりとりになればもう追跡も不能に。
これなども氷山の一角。ツイッターはこういう内部告発ツイートが転がってるので重要ですね。
https://twitter.com/CBFisamu/status/611302916834656257
私は、がれきの反対運動の中で行政職員や市民と対話をしていて、ずっと疑問がありました。それは「この人たちは、なぜもっと物事を真剣に考えないのか」ということです。
その人の個人的な資質だけではない何か。どの年代の人と話しても漂っている得体の知れない何か。
さらに、再生可能エネルギーが自然破壊で、エコでないということが、どうしてもわからない市民。地球温暖化が誤りであるということがわからない教師を含む行政職員。
このPDFをご覧下さい。 ⇒平成27年度 エネルギー・温暖化対策に 関する支援制度について ★補助金等ガイドブック★
経産省、環境省、国交省、農水省から膨大な血税が「温暖化防止」の看板で、再生可能エネルギーにジャブジャブ流れ込んでいて、もうめまいがします。
放射能汚染地域に人々を据え置いたままで、復興、再エネの大義名分のもと、企業、自治体、環境NPO、個人に補助金・助成金がまんべんなくばらまかれ、税制が優遇される腐ったしくみ。原子力ムラと同じことです。
原子力ムラと再エネムラはかぶってますので、再エネを進めても原子力ムラは原発を手放しません。
愚かな脱原発を標榜する再エネの利権市民が「原発VS再エネ」の偽の対立軸を叫びますが、それはまったく違うということがわかります。
「温暖化防止」の看板で原子力ムラが集まって再エネで商売する。
柏木孝夫氏に関しての当ブログ記事
再エネ賦課金を集める費用負担調整機関の代表の原発に対する私見を見る。再エネの皮をかぶった原子力ムラ 再エネ賦課金を集める費用負担調整機関の社員は、なんと原発推進の三井住友系!
その腐った仕組みに気づかない職員の根っこにあるものは何か。嘘にならない嘘を平気でつくことができるメンタリティはどこから来るのだろうか。
その何かが書かれているものを見つけましたので、紹介します。(太字強調は管理人)
視点・論点 「ハンナ・アーレントと"悪の凡庸さ"」 2014年06月25日 (水)
フェリス女学院大学教授 矢野久美子
今から50年ほど前の1960年代前半、ナチスの犯罪をめぐる裁判レポートが、大きな論争を引き起しました。これからお話しするのは、その裁判レポートの著者が何を語ろうとしたのか、ということについてです。
著者の名前はハンナ・アーレント。昨年、映画でも話題になったその人です。
1906年にドイツに生まれたユダヤ人女性で、政治哲学者です。彼女は、ヒトラーの反ユダヤ主義政策によって、ドイツから脱出せざるをえなくなり、1933年にパリに亡命しました。しかし、第二次世界大戦によってフランスで生きることも危うくなり、アメリカ合衆国へと避難し、そこで1945年の終戦を迎えます。
ナチスの全体主義政権下では、ユダヤ人をはじめとする大量の人間が、強制収容所やガス室をともなう絶滅収容所で、生きる価値を奪われ意味なく殺戮されるという事態が起こりました。人間を無用のものとするような言語道断の国家犯罪がなぜ起こったのか、どのようにして起こったのか。こうした問いが戦後のアーレントの思想の出発点でした。
彼女はこの「絶対の悪」と向き合い、1951年には『全体主義の起原』という大著を公刊しました。
アーレントは、戦後ドイツには戻らず、アメリカの大学で教えながらニューヨークで暮らしていました。1960年、あるニュースが彼女の心を揺さぶります。ナチスの官僚で、アルゼンチンに逃亡していたアドルフ・アイヒマンが、イスラエルの諜報機関によって逮捕されたというニュースでした。
アイヒマンは、ヨーロッパの各国から、ドイツ東部やポーランドにある収容所へと、ユダヤ人を移送する業務を統括していた、重要人物でした。前代未聞の犯罪を担った人間を、この目で見なければならないと強く感じたアーレントは、雑誌『ニューヨーカー』の特派員として、アイヒマン裁判を傍聴します。そして、裁判レポートを発表するのです。
裁判レポートは、一九六三年二月から三月にかけて『ニューヨーカー』に連載され、五月には本として出版されました。タイトルは、「イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」というものでした。アーレントは、一人の報告者として、裁判が自分の目にはどう見えたかを語りました。しかし、彼女の見解は許されざるものとして、イスラエルやニューヨークのユダヤ人社会から、激しい非難と攻撃をうけることになりました。彼女は本を書いただけでしたが、猛烈な批判をうけ、それまで親しかったユダヤ人の友人をほとんど失いました。
なぜそれほどの非難の嵐が起こったのか、主な論点をあげてみましょう。
問題の一つは、アーレントがユダヤ人組織のナチスへの協力にふれたことでした。アイヒマンが統括したユダヤ人移送業務において、効率的な移送のために必要な、一覧表の作成などを、ユダヤ人リーダーたちが行っていたということがありました。これはすでに他の歴史家によって指摘されていたことではありましたが、アーレントは総攻撃を浴びました。この問題は彼女の裁判レポートのテーマではまったくなく、ほんの数行しか言及されていない事柄でした。ところが、彼女の言葉は、ナチスの犯罪の共同責任をユダヤ人に負わせるものとして受け止められました。イスラエル国家では、そのユダヤ人リーダーたちが、主要なポストについていたということもありました。
そして最大の、今でも論争が続いている論点は、「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」という言葉にありました。裁判でアーレントが見たアイヒマンは、怪物的な悪の権化ではけっしてなく、思考の欠如した官僚でした。アイヒマンは、その答弁において、紋切り型の決まり文句や官僚用語をくりかえしていました。アイヒマンの話す能力の不足は、考える能力、「誰か他の人の立場に立って考える能力」の不足、と結びついている、とアーレントは指摘しました。無思考の紋切り型の文句は、現実から身を守ることに役立った、と彼女は述べています。ナチスによって行われた巨悪な犯罪が、悪魔のような人物ではなく、思考の欠如した人間によって担われた、と彼女は考えました。しかしユダヤ人社会では、大量殺戮が凡庸なものだったというのか、ナチの犯罪を軽視し、アイヒマンを擁護するのか、といった憤激と非難の嵐が起こりました。
アーレントにとって、人間の無用化をはかったナチスの犯罪は、ユダヤ人に対する犯罪というよりも、「人類に対する犯罪」でした。政治によって生きる価値のない人種が定められ、官僚によって行政的に大量の人々が殺戮されるという現代の悪は、アーレントにとって許されざるものであり、なぜそのようなことが起こったのか、徹底的に向き合い、考えなければならない問題でした。しかし、それは被害者たちにとっては普遍的すぎる視点であり、アーレントはユダヤ人同胞から、ユダヤ人への愛はないのか、と批判されます。論争のなかでアーレントを擁護した社会学者のダニエル・ベルさえ、「彼女が要求する普遍的な正義は、世界を判断する物差としては厳しすぎる」と述べました。
アーレントは、「悪の陳腐さ」という言葉で何を言おうとしていたのでしょうか。批判への応答のなかで、彼女は、「悪の表層性」を強調しています。悪は「根源的」ではなく、深いものでも悪魔的なものでもなく、菌のように表面にはびこりわたるからこそ、全世界を廃墟にしうるのだ、と述べています。アーレントは、20世紀に起こった現代的な悪が、表層の現象であることの恐ろしさを、述べようとしたといえるでしょう。「悪の凡庸さ」という言葉で「今世紀最大の災いを矮小化することほど、自分の気持ちからかけ離れたものはない」と、アーレントは語りました。「底知れない程度の低さ、どぶからうまれでた何か、およそ深さなどまったくない何か」が、ほとんどすべての人びとを支配する力を獲得する。それこそが、全体主義のおそるべき性質である、とアーレントは考えました。
アーレントにとって「思考の欠如」とは、表層性しかないということでもありました。
怪物的なものでも悪魔的なものでもない、表層の悪が、人類にたいする犯罪、人間をほろぼしうるような犯罪をもたらすという、前代未聞の現代の悪のありよう。それが、彼女の導き出した結論でした。
アーレントはそうした悪に抵抗しうる可能性として、思考すること、考えることを追究します。「ものごとの表面に心を奪われないで、立ち止まり、考え始める」ことを彼女は重視しました。アイヒマン論争においては、アーレント自身が、そうした、自立的な思考をつらぬきましたが、彼女の事例は、表層的になった社会のなかで自立した思考が孤立するとき、生きることはどれほど過酷で、思考はどれほど勇気を必要とするか、を表しています。こうした思考が孤立したり、攻撃されたりしないような世界のあり方を、アーレントに学びつつ、考えたいものです。
私は、放射性物質の危険性を学び、原発をなくしたいと思い、今ブログで発信していますが、その過程で再生可能エネルギーの欺瞞にぶち当たりました。
再生可能でなく再生不能なのに再生可能エネルギー、自然でないのに自然エネルギー。看板からして嘘です。
にもかかわらず政府、すべての政党、企業、組織は、温暖化防止、再生可能エネルギー推進です。
原子力企業=再エネ企業=軍事企業とかぶっています↓ 再エネ企業で原発に反対している企業はありません。
「原発に代わる自然エネルギー」という嘘に騙されて、市民全体が再エネを推進していくと、結局、軍事企業を儲けさせ、戦争に向かう。
何も考えず再エネを一致点とし、進めれば進めるほど原発はなくせないし、戦争に向かってしまいます。それはまさに「環境」に名を借りた全体主義。
底知れない程度の低さ、どぶからうまれでた何か、およそ深さなどまったくない何か」が、
ほとんどすべての人びとを支配する力を獲得する。
それこそが、全体主義のおそるべき性質である
温暖化についても、再エネについても全く検証しようとしない市民は、まさに「悪の凡庸さ」でした。
「ものごとの表面に心を奪われないで、立ち止まり、考え始める」
つまり、「温暖化」や「自然エネルギー」について立ち止まり、考えるということが、今もっとも重要だと私は思います。
再エネ全体主義がここまで蔓延ってきたら、戦争も起こるでしょう。
戦争法案反対を叫んでも、同じ口で「自然エネルギー推進」を叫ぶことの矛盾。
「ハンナ・アーレント」という映画が2013年に公開されていましたが、
ここにも「10/23各界から寄せられたコメントをご紹介」というところに、脱原発を標榜していることで有名な再エネ推進者(加藤登紀子氏、落合恵子氏)が名を連ねています。
この映画にも・・・ε=(・д・`*)ハァ… 映画というのは製作に大金が必要ですので、ここにも原子力マネーが来ているのかもしれません。
てことで、まあ、とりあえず予告編だけどうぞ。
ハンナ・アーレント 予告編
参考書籍
イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告 ハンナ・アーレント著 みすず書房