12・18勾留理由開示公判 意見書(下地真樹)
<12・18勾留理由開示公判 意見書(下地真樹)>
私は裁判所で、覚えていることは丁寧にお話しました。その結果、事実関係にすら混乱があるんですけど、一度は勾留請求が却下されました。そもそも逮捕状記載の被疑事実がメチャクチャなものでしたから、当然のことだとも思いますが、しかし、その後、どういうわけか長時間待たされた挙句、再度勾留との決定が出ました。しかも、その理由はなんら客観的証拠に基づかないメチャクチャなものです。司法の独立はどこへ行ったのかと思います。
今朝、検察官の取調がありましたが、その検察官ですら、被疑事実には私の行動についての記載が少ないと言っていました。
私が勾留されたのは「罪証隠滅のおそれあり」とのことですが、つまり、私が関係者と口裏合わせをして証拠隠滅をはかるとか、そういう話のようです。しかし、私は裁判所ではちゃんと話をしているのです。どうして今更口裏合わせする必要があるでしょうか。
むしろ実際に口裏合わせをしているのは、警察と、警察OBが多数天下っている警備業者の方ではないでしょうか。その可能性はありえないと判断したのなら、その根拠はなんでしょうか。実際に証言された方の前職が何かというだけの問題ではありません。業界としての太い関係性がある以上、その背景を考慮すべきですが、どうなのでしょうか。
私は自分が関わった市民運動の中で、路上の表現活動に対する警察の不当な介入に度々抗議してきました。許可が不要なことでも「許可が必要」と言い、こちらに知識がなければそのままやめさせられます。「それは違います」と抗議して、問答をすると、スゴスゴと引き下がったりします。もちろん謝ったりは絶対しないし、別の日にはまた同じウソを言います。一向に改善されません。ですから私は、根気よく抗議をくり返し、できるだけ多くの人々にその様子を見てもらったり、伝えるようにしてきました。その結果、警察の不当行為に気づいて、抗議をする人も増えてきたと思います。
警察の不当行為は路上表現への介入だけではありませんが、私はそれを根気よく問題にしてきました。世の中が良くなることを望んで、そうしてきました。すると警察は、私のことを名前や職業で呼ぶようになりました。私を脅かすためです。私の名前を呼んで指示をする警察官には警察手帳の呈示を求めたりしますが、ほとんど応じてくれません。規則違反ではないでしょうか? なにより、こんな下らない仕事をさせられる若い警察官たちが気の毒です。その中には、私の教えた学生もいるのですから。なおさらです。
関電前デモでの逮捕が不当逮捕であることは、それまでとは様子が違って警察官が多数来ていたこと、画像で転んでるのが映っていることから、誰でも知っていることです。
大阪府警はずいぶん以前から私のことを知っています。警察の不当行為を指摘し、抗議する私のことが目ざわりだったのではないでしょうか。それで自分たちの仕事のあり方を点検し、改めるべきは改めればよいところ、逆恨みをし、職権を使って私を罪に陥れる。これは特別公務員職権濫用罪に相当するのではないでしょうか? これでは、まるで子どものけんかです。
こうした警察の暴走を戒めるべき検察がむしろこれに同調し、こうした不正をチェックして防ぐべき裁判所がこれを簡単に認めてしまう。この国の刑事司法はいったいどうなってしまっているのでしょうか?
黙秘していると勾留の必要性が高まるかのように検察官は言いました。しかし、警察が私的な目的のために職権濫用をするおそれがあるから、黙秘権は重要な権利なのです。
逮捕や勾留も、重大な人権の制約なのですから、裁判所は、厳しく客観的事実を要求してください。
この間、大阪府警の不当介入、不当行為に厳しく抗議してきた人たちが、片っ端から逮捕、起訴されてきています。戦前の特高警察のような異常な事態です。再び刑事司法の暗黒時代を招き寄せることになるのか、ここで止めることができるのか、裁判所はきわめて重大な責任を負っていることを思い出してください。
これは、決して軽微な事案ではありません。裁判所は、しっかりしてください。
以上
2012・12・18
下地真樹 検事調べの中で、逮捕状記載の被疑事実はまったくのデタラメである旨いくつか述べたところ、「どうして素直に話してくれないのか。黙秘されると、こちらとしても勾留せざるをえない」というようなことを述べられました。しかしこれはとんでもない話です。
警察組織は何を(あるいは誰を)捜査し送検するかについての絶大な権限を持っています。警察組織を構成する個々の私的な利益のために職権を行使することがありうる。これは公共経済学的には(公共選択理論的には)あたり前のことです。今回のように警察の不当行為を抗議されたことへの逆恨みとして、あるいは、重要な天下り先の一つである関西電力の意向を受けて、市民運動に関わる者を逮捕する。そんなことは当然ありうることです。検察は「警察性善説」に立っている。これではまったくダメです。
だからこそ、職権乱用の被害者が身を守れるためにこそ、悪意をもって職権を乱用する者に協力しない権利が「権利として」保障される必要があるのです。「黙秘しているから勾留」などというのは本来とんでもない話です。
「疑わしきことは被告人の利益に」、これは実際の裁判でのみ考えればよいことではありません。逮捕も勾留も、重大な権利制限なのであり、きわめて慎重に運用されるべきものです。現状の運用は「20日の禁固刑は警察の都合で好き勝手に発動できます」と言うに等しい。実にひどい現状です。逮捕・勾留でもちゃんと客観的証拠を要求すべきです。その日数も厳しく制限すべきです。
人を信じるためにこそ、疑う。『Liar Game』というマンガの中で、主要登場人物の一人(アキヤマ、だっけ?)が言うせりふです。
警察だって過ちを犯す。悪いことをする。そういう前提で疑ってかかるのは、それでも残る信じられるものを発見するためです。「警察は悪意をもって捜査したり、送検したりはしない」こんなことを信じるのは、よほどのお人よしか、さもなければ、「その人が本当には過ちや悪事を犯していても迷惑をこうむることのない人」、端的に言えば、無責任にすぎません。(いや、もっと別の、もっと悪い可能性もありますね)
そもそも有罪率99.9%、その他勾留が許可される確率とか、諸外国と比べれば異常な数値が、日本の司法統計には並びます。
「絶対確実なものだけを起訴するから有罪率99.9%なんです」と言うかもしれません。これは個人の信念としてはわからなくもないですが、社会科学的知見としてはお話にならない。
権力は必ず腐敗しますが、一人ひとりのモラルを当てにした制度はもっとも酷いレベルで腐敗します。野放しに等しいからです。
日本の刑事訴訟制度の社会科学的分析が必要です。検事や裁判官の意識調査(たとえば黙秘権の意義や権力乱用の可能性、逮捕・勾留の権利制限の重大性についてなど)が必要です。刑事司法の「良心」を可視化する研究が必要です。そういう研究はないものでしょうか。
警察が恐くはないですか?と時々聞かれます。もちろん恐くないことはないのです。僕は留置場の環境にうまく適応しているし、ここで得ることもありました。しかし、僕が受けている人権侵害はとてつもなくひどいものですから。
僕はむしろ、悪いことをしていないのに警察が怖い世の中、「悪いことをしていないのに警察が怖い」ことを人々が当たり前に思い疑問に感じていない世の中、そういう中で誰もが黙り込んでしまう世の中こそ怖いと思います。しかも状況はますますひどくなっているのです。
こんな世の中は、当の警察官にとってもかわいそうです。とりわけ、若い警察官がかわいそうです。なんとかしてあげませんか、私たちの力で。
警察官に限らず、若い人の顔をみるとき、理屈ぬきの希望や喜びと同時に、申し訳なさを感じます。彼らに残すであろうこの世界のありようは、現状、あまりにも酷いからです。少しでもマシな姿にしておきませんか。私たちの力で。
原発や放射能のことだけではなく、この国が警察国家化しているという危機のこともすぐに手を打たねばなりません。この1、2年になにをなすかによって、私たちの未来は大きく変わります。とくに「学者」と呼ばれる皆さん、今、行動を起こさずして、別の機会はもうありません。今しかないのです。
2012.12.19 下地真樹
私は裁判所で、覚えていることは丁寧にお話しました。その結果、事実関係にすら混乱があるんですけど、一度は勾留請求が却下されました。そもそも逮捕状記載の被疑事実がメチャクチャなものでしたから、当然のことだとも思いますが、しかし、その後、どういうわけか長時間待たされた挙句、再度勾留との決定が出ました。しかも、その理由はなんら客観的証拠に基づかないメチャクチャなものです。司法の独立はどこへ行ったのかと思います。
今朝、検察官の取調がありましたが、その検察官ですら、被疑事実には私の行動についての記載が少ないと言っていました。
私が勾留されたのは「罪証隠滅のおそれあり」とのことですが、つまり、私が関係者と口裏合わせをして証拠隠滅をはかるとか、そういう話のようです。しかし、私は裁判所ではちゃんと話をしているのです。どうして今更口裏合わせする必要があるでしょうか。
むしろ実際に口裏合わせをしているのは、警察と、警察OBが多数天下っている警備業者の方ではないでしょうか。その可能性はありえないと判断したのなら、その根拠はなんでしょうか。実際に証言された方の前職が何かというだけの問題ではありません。業界としての太い関係性がある以上、その背景を考慮すべきですが、どうなのでしょうか。
私は自分が関わった市民運動の中で、路上の表現活動に対する警察の不当な介入に度々抗議してきました。許可が不要なことでも「許可が必要」と言い、こちらに知識がなければそのままやめさせられます。「それは違います」と抗議して、問答をすると、スゴスゴと引き下がったりします。もちろん謝ったりは絶対しないし、別の日にはまた同じウソを言います。一向に改善されません。ですから私は、根気よく抗議をくり返し、できるだけ多くの人々にその様子を見てもらったり、伝えるようにしてきました。その結果、警察の不当行為に気づいて、抗議をする人も増えてきたと思います。
警察の不当行為は路上表現への介入だけではありませんが、私はそれを根気よく問題にしてきました。世の中が良くなることを望んで、そうしてきました。すると警察は、私のことを名前や職業で呼ぶようになりました。私を脅かすためです。私の名前を呼んで指示をする警察官には警察手帳の呈示を求めたりしますが、ほとんど応じてくれません。規則違反ではないでしょうか? なにより、こんな下らない仕事をさせられる若い警察官たちが気の毒です。その中には、私の教えた学生もいるのですから。なおさらです。
関電前デモでの逮捕が不当逮捕であることは、それまでとは様子が違って警察官が多数来ていたこと、画像で転んでるのが映っていることから、誰でも知っていることです。
大阪府警はずいぶん以前から私のことを知っています。警察の不当行為を指摘し、抗議する私のことが目ざわりだったのではないでしょうか。それで自分たちの仕事のあり方を点検し、改めるべきは改めればよいところ、逆恨みをし、職権を使って私を罪に陥れる。これは特別公務員職権濫用罪に相当するのではないでしょうか? これでは、まるで子どものけんかです。
こうした警察の暴走を戒めるべき検察がむしろこれに同調し、こうした不正をチェックして防ぐべき裁判所がこれを簡単に認めてしまう。この国の刑事司法はいったいどうなってしまっているのでしょうか?
黙秘していると勾留の必要性が高まるかのように検察官は言いました。しかし、警察が私的な目的のために職権濫用をするおそれがあるから、黙秘権は重要な権利なのです。
逮捕や勾留も、重大な人権の制約なのですから、裁判所は、厳しく客観的事実を要求してください。
この間、大阪府警の不当介入、不当行為に厳しく抗議してきた人たちが、片っ端から逮捕、起訴されてきています。戦前の特高警察のような異常な事態です。再び刑事司法の暗黒時代を招き寄せることになるのか、ここで止めることができるのか、裁判所はきわめて重大な責任を負っていることを思い出してください。
これは、決して軽微な事案ではありません。裁判所は、しっかりしてください。
以上
2012・12・18
下地真樹 検事調べの中で、逮捕状記載の被疑事実はまったくのデタラメである旨いくつか述べたところ、「どうして素直に話してくれないのか。黙秘されると、こちらとしても勾留せざるをえない」というようなことを述べられました。しかしこれはとんでもない話です。
警察組織は何を(あるいは誰を)捜査し送検するかについての絶大な権限を持っています。警察組織を構成する個々の私的な利益のために職権を行使することがありうる。これは公共経済学的には(公共選択理論的には)あたり前のことです。今回のように警察の不当行為を抗議されたことへの逆恨みとして、あるいは、重要な天下り先の一つである関西電力の意向を受けて、市民運動に関わる者を逮捕する。そんなことは当然ありうることです。検察は「警察性善説」に立っている。これではまったくダメです。
だからこそ、職権乱用の被害者が身を守れるためにこそ、悪意をもって職権を乱用する者に協力しない権利が「権利として」保障される必要があるのです。「黙秘しているから勾留」などというのは本来とんでもない話です。
「疑わしきことは被告人の利益に」、これは実際の裁判でのみ考えればよいことではありません。逮捕も勾留も、重大な権利制限なのであり、きわめて慎重に運用されるべきものです。現状の運用は「20日の禁固刑は警察の都合で好き勝手に発動できます」と言うに等しい。実にひどい現状です。逮捕・勾留でもちゃんと客観的証拠を要求すべきです。その日数も厳しく制限すべきです。
人を信じるためにこそ、疑う。『Liar Game』というマンガの中で、主要登場人物の一人(アキヤマ、だっけ?)が言うせりふです。
警察だって過ちを犯す。悪いことをする。そういう前提で疑ってかかるのは、それでも残る信じられるものを発見するためです。「警察は悪意をもって捜査したり、送検したりはしない」こんなことを信じるのは、よほどのお人よしか、さもなければ、「その人が本当には過ちや悪事を犯していても迷惑をこうむることのない人」、端的に言えば、無責任にすぎません。(いや、もっと別の、もっと悪い可能性もありますね)
そもそも有罪率99.9%、その他勾留が許可される確率とか、諸外国と比べれば異常な数値が、日本の司法統計には並びます。
「絶対確実なものだけを起訴するから有罪率99.9%なんです」と言うかもしれません。これは個人の信念としてはわからなくもないですが、社会科学的知見としてはお話にならない。
権力は必ず腐敗しますが、一人ひとりのモラルを当てにした制度はもっとも酷いレベルで腐敗します。野放しに等しいからです。
日本の刑事訴訟制度の社会科学的分析が必要です。検事や裁判官の意識調査(たとえば黙秘権の意義や権力乱用の可能性、逮捕・勾留の権利制限の重大性についてなど)が必要です。刑事司法の「良心」を可視化する研究が必要です。そういう研究はないものでしょうか。
警察が恐くはないですか?と時々聞かれます。もちろん恐くないことはないのです。僕は留置場の環境にうまく適応しているし、ここで得ることもありました。しかし、僕が受けている人権侵害はとてつもなくひどいものですから。
僕はむしろ、悪いことをしていないのに警察が怖い世の中、「悪いことをしていないのに警察が怖い」ことを人々が当たり前に思い疑問に感じていない世の中、そういう中で誰もが黙り込んでしまう世の中こそ怖いと思います。しかも状況はますますひどくなっているのです。
こんな世の中は、当の警察官にとってもかわいそうです。とりわけ、若い警察官がかわいそうです。なんとかしてあげませんか、私たちの力で。
警察官に限らず、若い人の顔をみるとき、理屈ぬきの希望や喜びと同時に、申し訳なさを感じます。彼らに残すであろうこの世界のありようは、現状、あまりにも酷いからです。少しでもマシな姿にしておきませんか。私たちの力で。
原発や放射能のことだけではなく、この国が警察国家化しているという危機のこともすぐに手を打たねばなりません。この1、2年になにをなすかによって、私たちの未来は大きく変わります。とくに「学者」と呼ばれる皆さん、今、行動を起こさずして、別の機会はもうありません。今しかないのです。
2012.12.19 下地真樹